「異種混交の身体表現の追求」JTANフェスティバル2010

                     結城 朱鷺(文化論)

 2010年9月27日から10月3日の7日間、JTANによるフェスティバル、JTANフェスティバル2010が、東京・神楽坂の小劇場ディプラッツで開催された。
 これは、「舞台芸術の本質を追求する」ことを目的として2007年に結成されたJTAN(ジャパン・シアター・アーツ・ネットワーク)によるもので、参加団体は公募を含めて22団体。1日に3、4団体の公演が行われ、最終日の10月3日(日)には、公演後、シンポジウムが行われた。参加団体は演劇、ダンス、パフォーマンスなどさまざま。いずれもエンターテイメントではなく新しい表現を追求しようとする団体や個人だった。
 今回のフェスティバルの特徴は、舞台制作や当日の舞台監督、照明、音響などを基本的に参加者が自分たちで行うというものだ。それは、「舞台芸術の本質を追求する」ことを、概念や理論と演出、舞台表現のみならず、舞台づくりなどすべてを自分たちで体験することで、実践的に行うという意図によるとしている。通常、演出家、振付家と俳優、ダンサー、そしてスタッフは分業化され、お互いの領域を守って舞台をつくる。それは効率的ではあるが、照明や音響のノウハウから舞台制作の詳細までを把握することで、舞台に対する認識を新たにし、舞台表現に役立てつつ、自分の芸術表現をより深く追求することができると考えたためだという。小劇団や小さい団体では当然、それらのノウハウを持つものがおり、それを共有して舞台として他と遜色ないものを仕上げるという点では、成功していたといえるだろう。
 では実際に舞台はどうだろう。参加団体が多いため、紙幅の関係もあり、ごく短い評にしたことをお断りする。
 9月27日(月) 「aji」の演劇は短時間に多層的構造を見せ魅力的だったが、どこかに抜ける道がほしい。「さのともみ」は語りがなかなか巧みだが、伴奏の二胡が問題。フレットレスの楽器は耳がよくないと辛い。浅見入江門馬+(武藤)による女3人のダンス『きょうのからだ』は、入江淳子の動きが際立った。「長堀博士+奥村拓」による奥村拓の独り語りは、結婚式スピーチを私的に拡張し、切なく素晴らしい。
 9月28日(火)赤石園子『ハッピーエンド』今井尋也の伴奏で、シンプルな独り語りがひきつけた。赤井康弘『その部屋に、ふたり』(イヨネスコ)は、流れる映画の台詞に対して男性の意図的な囁き声が聞こえないのがストレス。意図はわかるのだが。KDANCE THEATER『トラベラーズ』は、坂田洋一による映像もうまく使い、構成はかっちりと、そして浮かび上がる優しさも一つの世界。ただ、それを効果的に生かすには混沌がほしい。
 9月29日(水)「長堀博士+上松頼子」は3人のリーディングで三島由紀夫『熱帯樹』を語り、なかなか面白いが、ピントが少し甘い印象。「ふぞろいなぱいなぽー」の『さがしもの』は女性7人の群舞で、シンプルなモダンダンスだった。「y0suka」『夢人間』(作:下亜友美、演出:森田金魚)は自分のレプリカントを作った夫と妻、3人の物語でなかなか聞かせる。高田真琴『innerB』は町田トシユキの音楽とともにシンプルなダンスだが、切なげな表情と醸す雰囲気が非常に魅力的だ。
 9月30日(木)「ワタクシー」はビデオ映像の男と女の対話で女を4人が演じる。「OM-2」はハムレット映画をバックに女がマイクロカメラで自分と腹の中を映しオフェーリアの衣裳で去ると男女によるパーカッション、女のヴォイスなどで幻惑する。「劇団ING」はダンス・コロスを交えてチェーホフの『かもめ』を演じる。
 10月1日(金)「ワタクシー」は前日同様。クリタマキ『気配、予感』はソロダンス、漢字の映像という発想は面白い。「とりととら」の『触れて、煮込んで、泳いでる』は、大数みほのシンプルな語りに動きがつき、素朴さが新鮮。「相良ゆみ」の舞踏は、上半身裸の前半、薔薇を持つ後半ともに、緊張感が持続してひきつける、とてもいい舞台だった。
 10月2日(土)実験演劇集団「風蝕異人街」『チェーホフの憂鬱』(演出・構成:こしば きこう、振付演出:三木 美智代)はチェーホフの『三人姉妹』をモチーフにして、女性2組のコントラストがよく、ダンス混じりのアングラテイストも楽しい。「武藤容子」のソロダンス『続・きょうのからだ』はテンションも高く引き込む作品。「Megalo Theatre」はアルファベットの紙を並べシェークスピアの台詞とともにパフォーマンス。アイデアと空間性が魅力。「とりととら」は前日同様。
 10月3日(日)「万城目純(永久個人)」は朗読と撮影、そして舞台上で八ミリを現像・上映するという実験的舞台の発想がいい。「テラ・アーツ・ファクトリー」は、作・演出・出演、磯村哲司『隅田川』。杖の老人の一人芝居。なんとも凄い存在感と身体の動きで圧倒。「Delfino Nero Annex」は在ル歌舞巫と南阿豆2人の舞踏と音楽。「Megalo Theatre」は前日同様。
 そして最終日の公演後のシンポジウムは、「風蝕異人街」のこしばきこうの司会で、上松頼子、紙田昇らがパネラーをつとめた。パネラーはいずれも今回のフェスをきっかけに参加した団体の主宰者。まず多かったのは、演劇、ダンス、パフォーマンスと違うジャンルが一緒になることで、お互いの交流が深まり、新たな発見がそれぞれあったという意見だった。そして、企画から舞台づくりまで、意見を出し合って行うという経験も初めてで、有益な体験だったという意見もあった。
 筆者から見て、作品は玉石混交といえる部分があり、コンセプトがそのまま提示されているものもあった。また「表現しようとしてできない男の悲哀」ともいえる作品が数点重なったのも気になった。しかし、手馴れた劇団が集まるフェスティバルやショーケースよりは、もっと鮮度のある実験的な意欲が感じられる舞台も多く、こういった意識のある表現者が集まってネットワークをつくっていくことは、とても意義ある活動だと思う。また、20分から40分という短い時間に凝縮して作品を発表するという機会もいい。観客もさまざまなタイプの違う表現を楽しんでいるようだった。というのは、最終日のシンポジウムには、思ったより多くの観客が集まったからだ。通常、こういったフェスティバルのシンポジウムというと、当日舞台観客の1割から3割だが、半数以上の観客がシンポジウムに参加して、発言もあったことは、「舞台表現の本質を追求する」ことに、観客も関心が高かったといえるのではないか。
 現代日本の表現は多様化し、演劇も新劇からアングラ演劇、第二世代、第三世代、静かな演劇などと変化し、第三世代の野田秀樹、次の世代のケラリーノ・サンドロビッチ、松尾スズキらは活発に活動している。ダンスでは、バレエや日本舞踊からモダンダンス、舞踏、コンテンポラリーダンス、さらにバリ、フラなどの民族舞踊も盛んだ。パフォーマンスは1920年代から萌芽があり、50〜70年の一期、80年代の二期、さらにインスタレーションの流行を経て再び活動が高まって、音楽パフォーマンスとのコラボレーションも増えている。
 このような現在、「舞台表現の本質を追求」というややアナクロニックなスローガンとともに、実験的な舞台を異種混交で提示することは、とかく舞台がお笑いを含めた単なるエンターテイメントに流れがちな現代には、大きな意味があると考えている。今後の展開に期待したい。