森山開次「KATANA 」種子田郷など

森山開次はいいダンサーだ。昨年ダンス白州で土と格闘する姿が印象的だったが、今回は種子田郷の音、能楽師の声と格闘しながらも、自分の世界を構築した。刀、書、能楽など日本的モチーフを使いつつも、種子田の生音から作ったノイズ的サウンドや動きは、いまの感覚だ。特に椿の花の降る場面は美しかった。いつもの柔らかい動きを排して硬質な動きとイメージを追求したが、数ヶ所柔らかい部分や、そういうモードで踊り込む部分があると、「刀」的部分や身体の強さがより際立ったように思う。音は重低音が床や壁を震わせるところと、砂利道を歩くようなとこが特に印象的だった。椿のあとの雪は、部分的に降らせるなど、差別化をはかりたい。
セッションハウスで若手、菊地びよのグループ此処露天は女三人組という構成を生かし、マリアッチでのジャンプから追い駈けっこ、絡みまで、単純でも発想しだいで面白い舞台が作れることを示した。最後にもう一つ破綻があるとよい。
小幡あえ架のソロはピンヒールのOLがテープを張りながら壊れていくものだが、壁に貼るテープをもとに蜘蛛の巣的空間が絡み、面白い舞台だった。抽象化を助けたのは種子田の音。一日に二度も彼の音の舞台を見たことになる。
さらに両国シアターカイで芝居とダンスの二本立て。松山の二人芝居は別役実作品を数十年でがけ、手慣れた演技。ただ、いまの若者をひきつけるには、大胆な演出改訂が必要だ。矢野通子ダンスカンパニーは60から70年代に前衛からモダンダンスへ。だがいま、新しさは感じられない。技術があるダンサーもいるのだが。
衣裳や感情表現など、いわゆるモダンの感覚が斬新だったのはせいぜい70年代まで。80年代からのビナ以降のコンテンポラリーダンスに目をつぶると、モダンは近代に、さらに古典芸能になりかねない。あれからすでに20年が経過しているのだが。
既視感のある舞台は、だいたいが観客のノスタルジーよすがにするしかない。それは残念なことだ。演劇関係者が例えば大人計画、ダンス関係者がBATIKを見ずに舞台を作るなら、時代を感じていないといわれても、仕方がない。流行を追わず頑なにというのは伝統文化モードに近づきやすい
志賀信夫