相良ゆみVS 倉嶋正彦@ZAIM.0722

大野一雄のところで相良ゆみと出会ってから何年もたつ。竹を持たされて従順に振る舞うさまは、真面目な人との印象を越えるものではなかった。
だが脇川海里のイマージュオベラでアラベスクをやったときに、その存在感にオヤと思った。それは旗揚げで全体としては前衛指向の学生ノリの舞台だったが、脇川と中西、相良がひっかかった
そして中西のレモン組でずっと舞台を這いずっていたときに、ひきつけられた。よく見ると鍛えられたバレエの体。聞くとそれを教えてもいる。だが、這いずっている
たぶん踊り手にとって舞踏にひかれた素朴な解答が、そこにはある。

横浜の新しい空間ZAIM。学園祭の雰囲気でいいのかどうかわからないが、熱意が古いビルを取り巻いている。ただハマトリでも前の越後妻有でも感じたが、ボランティアという甘えがプロ意識を上回ったら、たぶんダメだろう。海外援助のNGOを知ればそう思わざるをえない。だがこの日会場で会ったたぶんボランティアの人たちは、作品に愛情をかなり注いでいるようだった。あとは知識も必要だが
4階の一室。でかい曼陀羅様の作品が会場の床大半を占める。手前は暗め、億はやや明るめの二作品が連なる。だが、照明も落としておりディテールは見えない。奥の作品の上に黒い紗が吊されている。床の作品に光が入れられるなか相良が白い服で登場し、床の作品の上に静かに這うように登場する。ゆっくり時間をかけて這いつつ動いていく。体がしっかり延びて美しい。だがいま気がついた。相良ゆみ、先日の野沢英代、ともにいい世界をつくる。しかし舞踏とは見えない。肩書きはどうでもいいのだが、たぶん舞踏は「動く」ことを前提としていない。動かないことではない。すべてのダンスや舞踊はやはり動くことが前提としてあり、そこで動かない選択もある。しかし舞踏は違うのではないか。動くことという前提をとっぱらっているのではないか。
それはともかく、相良の踊りは舞踏としてとらえられないとしても、彼女ならではのものが、静かに染みだし始めているように見える。もっと這いずり作品に痕跡を残すほど戦うべきで、少し遠慮が見えたとはいえ。
今日駅に深夜降り立ったら、でかいクワガタが翔びながら迎えてくれた。彼らも飛ぶと早く自由なのだが、這いずっているとおそろしくのろく、動かない。
倉嶋の作品、独自のアニメキャラ、寺やアンコールワットRPG的世界が相まってコンピュータによる細密画として曼陀羅、一つの世界を構成していて面白い。ただ曼陀羅は完結したものとして納まって見られる危険性がある。どうそこから逸脱するのか、つまり作品からどうはみ出すのか、に僕は関心を抱いた
この写真の中央には小さく相良がいる。では右の物体は?