◆ク・ナウカ『アンティゴネ』@東京国立博物館本館前特設ステージ、

◆大胆な野外劇場
 ク・ナウカは昨年、東京国立博物館でおそらく初めて、演劇の上演を行った。過去の歴史を紐解いたら、前身の帝室博物館時代にあったかもしれないが、少なくともここ数十年、この博物館で本格的な演劇の正規公演が行われたことはなかったろう。『マハーバラータ』という古代インドの戯曲の上演だった。音楽や役者が周囲をめぐる画期的な舞台で、美術館の入場券もサービスされ、夜にも関わらずインド美術などが一部鑑賞できる設定だったが、せっかくこの博物館でやるにしては、普通のビルの地下のような風情が残念でもあった。しかしこれを契機に美術館側も乗り気になったらしく、倉迫康史のOrt+d.d.による『四谷怪談』が雰囲気のある西洋建築の表慶館「階段」で行われ、リニューアルした本館では上田遥振付によるダンスの公演など、続々と行われてきた。ちなみに前者は演劇関係者から高い評価を得ており、またつい最近の後者は、『卑弥呼』をテーマに、小島章司、舘形比呂一、橋本拓也熊谷和徳、三木雄馬といった多ジャンルのトップダンサーの共演だった。

 そしてク・ナウカは、ついにこの博物館の顔ともいえる正面の噴水池とエントランスを使って野外舞台を組み立て、大胆な上演を行った。正面にある本館の入口はコンクリート造だが、日本風な大屋根とエントランスが魅力的で、その前には巨木と西洋風の池がある。その入口前に舞台を作り、なんと大胆にも池の半分の上に客席、そして残りの池半分を舞台の一部として使い、奥の本館のエントランスに楽隊という配置だった。ク・ナウカは以前から、自分たちでパーカッションを中心に生演奏の音楽を使うことが多く、今回はここで演奏が行われる。この博物館本館という背景だけで十分にある種の荘厳さというか雰囲気が作られているので、このロケーションを選んだ宮城のさすがのセンスだ。

 舞台中央には、6mほどの金色の湾曲した角のようなオブジェが、直径4mほどで円形に生えるように置かれている。その手前には白い衣の人々が8名ほど横たわり、黒い衣の人々が10名あまりしゃがみ込んでいる。その中の1人が立ち上がり舞台奥に去ると、1人、アンティゴネ(美加理)が置きあがり会話が始まる。対話相手の妹イスメーネーを黒衣の数人の女性が演じ、その会話で、王の布告に逆らって、兄ポリュネイケースを弔うという決意が語られる。アンティゴネは、デルフォイの神託によって、母(イオカステ)と結婚して交わり、父(ライオス)を殺した有名なオイディプス王の娘、近親相姦の子。王座を兄弟で争って死んだ兄の供養について、兄弟愛を通す。それについて、現在の王クレオーンとその息子、アンティゴネの婚約者ハイモーンが争うことになる。

 周囲の白い衣装の者たちはコロスで、黒い衣の人々は当初イスメーネーを数人で演じ、そして奥に去って音楽を奏でる。やがて白い堂々とした衣装の男たちが上手から6名登場し、阿部一徳を中心に王クレオーンを演じる。美加理のアンティゴネは金色の角の輪の中に入り倒れて、王に洞窟に幽閉されたことを表す。その姿はさすがの美しさだ。客席後方からハイモーン(大高浩一)が光を受けて登場し、客席前の噴水を渡って舞台に登って王とやりあう。野外劇の空間を生かした展開だ。

 その後、アンティゴネは下手に去り、コロスたちが白い紐を引きずって去っていく。物語では首を吊って自害するが、この白い紐はそれを象徴している。王たちは上手に去り、音楽の演奏が高まっていく。やがて下手の奥から蝋燭の光がいくつか現れる。頭に蝋燭を灯したコロスたちとアンティゴネが、次第に近づいてくる姿は非常に神秘的だ。そして舞台に並ぶ。王たちも登場し、間に入り舞台前面に寄ってくると、それぞれが黒枠の写真を持っている。下の池には灯籠が流れて、なんとも独特の美しさをもつフィナーレだった。

◆死の美学
 最後はクレオーン、ハイモーンの妻エウリュディケも自害するという物語だが、宮城はアンティゴネが死んでいく話を中心にして、簡潔に美しくまとめた。舞台の荘厳さももちろんだが、衣装、音楽、設定ともにギリシャ、アジア、日本の混じりあった独特の混淆も、この舞台の魅力の1つだ。また、これまで宮城聡が行ってきた二人一役は台詞と演者が分かれる形だが、今回は王を6人が一役とし、イスメーネーも本多麻紀と数人が一役として演じて、台詞を発しながら動く。数人一役とコロス構造の合体という感じだ。広い舞台のためもあるだろうが、1人ではなく数名の声が響き、言葉を時に明瞭に、時に複雑に響かせて美しい。

 コロスたちは、ゆっくりとした舞踏的な動きをまじえながら、独特の抑揚で語る。そしてそこに美加里の声が響いていく。最後の頭に蝋燭を載せた姿は、澁澤龍彦の『菊燈台』を意識したものだろうが、黒枠写真という日本的な死をギリシャ悲劇に持ち込み、インパクトのあるエンディングとなった。冒頭から倒れ伏す人々は、兄たちの戦いで敗れた人々の死体とも見える。彼らはコロスとして物語を展開しながら、最終的にすべて死に向かうというエンディングを暗示してもいる。日本的な死の美学とギリシャ悲劇の死の美学が微妙に重なり合い、アジア的な音楽とともに、死そのものを異化しようとする印象だった。

 台風による雨のため野外劇には厳しい状況だったが、雨合羽、クッション、カイロ、大きめのビニールの一式が配られ、十分な配慮がなされていた。雨のなかで台詞の聞こえ方が心配されたが、一部マイクを使い十分聞き取れて、雨を感じさせない衣装と舞台構成など、利賀村日比谷公園ギリシャデルフォイ神殿などでの野外上演経験の多い宮城の技量が十分発揮された。時期はずれの台風により上演中止もあって興行的には厳しかったろうが、都内には多くの美術館、公園などがあり、例えば新宿御苑の御涼亭など、上演に向いた場所があるので、これからもチャレンジして、日常では見過ごす場所で、ぜひとも宮城聡、ク・ナウカの幻想世界を繰り広げてほしい。